123<科学室>

「……なにか割れたっぽいな」
「ねぇ、見てきた方がいいんじゃない?」
 要と光がそんな風に言葉を交わす。
 教室も準備室も中に人気があるようには感じられない。
 先生が授業の準備をしてたのなら一人だろうし、何か物でも落として怪我でもしたかもしれない。
 いや、なんか結構大きな音したから、倒れた拍子に何か引っ掛けて割ったとかいう可能性だってある。
 脳梗塞だの心筋梗塞だの、最近の成人病は本当に物騒だし……。

「今何分だ?」
「……28分」
「あと2分か、まぁ遅れても理由には十分だろう」
 5限の授業開始は1時30分からだ。
 でも担当の先生はのんびりしたおじいちゃん先生だし、チャイムぴったりにも来ないし、何も問題はないだろう。
 誰もがそう思ったらしく、俺たちは互いに頷いた。
 がらがらと要が化学室のドアを開ける。
「…………っと」
 中には誰もいない。

「準備室の方か?」
 化学室と化学準備室は繋がっている。
 黒板の向こう側にあるドアが開いているのを見て、俺たちはぞろぞろと中へ入った。
「誰かいるんですか? 先生? 大丈夫ですか?」
 声をかけながら要は薄暗い準備室にひょいっと入る。その後に光が続いて、俺と小野寺は何となく入り口で足を止めた。
 準備室はそう広くない。
「……なんでカーテンが……、暗い……光、電気のスイッチ」
「え、えーっとー……、うぅー? なんか変なにおいしない……?」
 ぱちっと音がして、電気が点いた。

「……わっ」
「わあッ」
 要と光の驚いた声に俺と小野寺は驚いた。
 何があったのかと、二人の後ろから背伸びをして中の様子を窺う。
「……なんっ」
「ちょ」
「おい大丈夫か!?」
 生徒が一人倒れていた。

「おいしっかりしろ!」
「な、な、うそ……ひどいっ」
 制服のシャツ一枚を羽織っただけの、小柄な生徒。
 細い足が白っぽいもので汚れていて、何があったのかは一目瞭然だった。
「わ、わっ、血が出てるっ」
「光気をつけろ、そのガラスだ!」
 不用意に近付こうとした光を制止して、要は床を指差した。
 割れた試験管が転がっている。
「おいあんた、大丈夫か? 聞こえるかっ?」
 要は割れたガラスに注意しながら、倒れている生徒の肩にそっと手を触れる。様子を確かめようと、腕の出血に気を配りつつ、生徒を仰向けにした。
「……あっ」
 思わず、声が出る。

 …………綾瀬だ。
「夏樹、知ってる奴か?」
「……あ、あや、せ……っていう、二年の……」
「二年?」
「……し、指名……制……、高嶺の……、告白、して……」
 それで報復を受けたと言っていた。
 篠原が親衛隊は本当に報復を行ったことはないと言っていたから、もしかしたら、別の奴らに報復と称した暴行を受けたかもしれなくて……。
 それなのに、今またこんな目に遭ってるなんて。
 俺なんて、この前みたいな目にもう一回遭ったらなんて、考えたくもないのに。

「……わかった、とりあえずその事は後だ。先生を、丸山先生を呼んできてくれ」
「……あ、あぁ、うん……あ、えっと」
 言われたとおりにしようとして、できないことに気が付いた。
 ……なんで俺……、……あ、足の動かし方が……分からないんだ……?
「夏樹?」
 呼びかけてくる要の、傍に、綾瀬。
 ……血の気の引いた、青白い顔で、汚れたシャツ一枚に、あちこちについた赤や白の痕……、床に点々と落ちている赤い血……。
「…………」
 なにか、なにか、忘れているような……、焦りが募って、目の前が薄暗くなって……。
「夏樹……!?」
 唐突に来た吐き気が足を突き動かしていた。

「……っっ! ……っえッ、……ッっ」
「なっちゃん!?」
 化学実験室の実験台に備わっている流し台に、吐き気をぶちまけてしまった。
 光が慌てて飛んでくる。
「だ、大丈夫っ? なっちゃん!」
 背中をさすられる。
「せ、先生は俺が呼んでくる! 安達っ、佐倉のこと頼むな!」
 小野寺がそう叫んでばたばたと外に出て行った。

「な、なっちゃん、もしかして、この前の思い出して……っ?」
「……っ」
 ちがうと、無言で首を振る。
 流し台のふちを掴む手ががくがくと震えている。
 脳裏をよぎる感覚は、この前の悔しくて情けないのとは全く別の、……もっと奥底からの恐ろしい何かだ。
 俺は忘れてる。
 何か忘れてる……。

「先輩っ、気が付きましたか!?」
 後ろから声がした。
「う……あぁ、……気を、失ってたのか……」
「腕以外に痛むところは? 頭は打ってませんか?」
「……あたまは、痛く……ない……、眩暈がして……真っ暗に……あぁ、切っちゃったのか……」
 ぼんやりと呟きながら、綾瀬は自分の腕を見てそう呟いた。
「まいったな……、一人で始末して帰ろうと思ってたのに……。見られるなんて……情けない……」
「何を言ってるんですかっ」
 綾瀬は切った右腕を庇いながら、要に支えられて身を起こす。
 それから、人の気配を感じたのか、こちらに視線を向けてきた。

「……あぁ、最悪だ……。まさか君にまで見られるなんて……」
「あ、や……せ……」
「なに? 気分でも悪いのか? 吐いたのか?」
 俺の背中をさすっている光を目にして、綾瀬は唇の片方をくっとあげてそう声をかけてくる。
「とんだ弱虫ちゃんだな……、レイプの現場見て吐くなんて」
「ち、ちが……」
「僕もお前みたいに弱かったらと思うよ」
「…………」
 わけの分からないことを言う綾瀬に返す言葉がない。
 言葉を切り返す思考が働かない。

「そうやって人に支えてもらうのが上手い奴はいいよね」
「ちょ、先輩っ」
 綾瀬は要の支えを無視して立ち上がる。
 そしてまっすぐに向かってきた。
「先輩っ、何やってっ、裸足っ!」
 要の言葉に足元に目をやれば、綾瀬の歩いた跡に血が落ちている。裸足でガラスを踏んだらしい。
「弱ければ傍にいてもらえるのか? 弱くなきゃ、一人でいなきゃいけないのか?」
「………………」
 見下ろしてくる相手の顔がよく見えない。窓からの光で逆光になっている。
「先輩っ、怪我! 血が出てる!」
 光が伸ばした手を、細い腕が振り払う。そんな光景が見えた直後、綾瀬の腕が伸びてきて、喉の強烈な圧迫感に視界が歪んだ。

「なっ、何してるんですかっ!?」
「先輩っ!!」
 耳にドクドクと音が鳴り響く。
「一人じゃ生きていけないならっ、死ねばいいんだ!」
 息が苦しい。
「……っ、ハ」
 血が止まる。頭が割れそうになる。
「やめてください! 離して! 離せ!!」
 首に絡みついた指を必死にどかそうとする声。
「死ね! 早く死ねよ! いなくなれ!」
「ぁ、ッ、ァ゛」
「せんぱいッ!!」
 鈍い響きが伝わってきた。

「要っ」
 どかっと音がする。作りつけの大きな教卓にぶつかって倒れた華奢な体。
「夏樹に手を出すなら容赦しませんよ!」
 目の前に背中がある。隣には、倒れそうなのを支えてくれる手。
 二人の間から見える、床に倒れこんだ傷だらけの体。
「げほげほっ」
「なっちゃん!? 大丈夫!?」
「あ、ぁ……、うぅ」
 頭がガンガンする……。
 チャイムの音が鳴った。