124<根拠>

 チャイムが鳴り終わると自分の心臓の音が聞こえ始めた。
「なんでお前なんだ……っ」
 搾り出されるような綾瀬の声。
「……は、……ハ」
 落ち着け、落ち着くんだ。息は、吸える。苦しくなんか、ない。
「なんでこんなに違うんだっ!」
 気持ちの悪い汗と、耳障りな心臓の音。
 倒れていた相手が身を起こし、睨んでくるのが見えた。
「う……」
 ……思い、出した……ことが。ひとつ。
「……ね、ぇ……ちゃ」
 床に広がる、汚れた髪。その隙間から、こっちを見てくる目。
「いつ……だ……。これ……ゆめ……?」
 それとも、俺が覚えていない間に起こったっていう、姉ちゃんたちが即死じゃなかったかもしれないっていう何かの記憶?
 ……気分が悪い。

「僕とお前でっ、何がこんなに違うんだよ!」
「先輩落ち着いてください! 止血しないと!」
「い……っ、たぃ……」
「なっちゃん! どうしよう、大丈夫!? どこか痛いの!?」
「あ、あたま……、いたい……」
 姉ちゃんの……彩香姉ちゃんの目の記憶が一枚の写真みたいに頭の中にある。それがいつのことだったか、どういう状況だったのか、何にも分からない。思い出そうとすると頭が痛む……。
「なっちゃん!? なっちゃん!? 大丈夫!?」
「何なんだよお前っ! なんでお前が潰れるんだ!? 酷い目にあったのは僕だ! お前じゃない! そんなに弱いことをアピールしたいのか!?」
「……う、るさいっ」
 喚き声が響いて頭の中がぐちゃぐちゃになる。

「先輩っ、落ち着いて! 興奮したら駄目です! 出血が酷くなる!」
「ほっておけ! 僕は一人で大丈夫だ! こいつみたいな弱虫じゃない!」
「先輩だって充分一人じゃ駄目そうですよ!」
「なっ」
 うるさい声がやんだ。
「い、痛いっ」
「結構深く切れてるんです、じっとしててくださいっ」
 取り出したハンカチで、要は出血している綾瀬の腕をきつく縛っている。
「足も止血しないと……。ガラス刺さってませんか?」
「………………」
 綾瀬は今度はだんまりだ。

「刺さってはないですね。……まったく、裸足でガラスの上を歩くなんて……」
 要が嘆息したその時だ。
 ガラガラと化学室のドアが開け放たれた。
「……先生!」
 光がほっとしたような声を出す。
 丸山先生と小野寺がいた。
 走ってきたらしく、肩で息をしている。
「綾瀬くん……、いったい、何が……」
 丸山先生はよろよろと綾瀬に近付いた。
「倒れた拍子に試験管を倒して……、割れたガラスで腕を切ったみたいです。足も……裸足だったから」
 無茶して歩いたから怪我が増えたことは要は言わなかった。

「……乱暴、されたの?」
「ちょ、先生……」
 丸山先生のストレートな言い方に、要が咎めるような声を出す。
「誰に……? 相手は分かる……?」
「先生……?」
 俺も丸山先生に声をかけた。
 俺の時は先生、気を使ってくれて、一切そんなこと聞いてこなかったじゃないか……。
「正直に言うんだよ。……いつからだい?」
「………………」
 綾瀬はびくりと肩を震わせた。

「丸山先生……、いつからって……」
 要の声かけには丸山先生は反応しない。
 俯いている綾瀬にじっと視線を向けている。
「……僕は保健医だから、こういう被害はいくつもケースを知ってる。こういうことは大体、放課後や休みの日に集中するんだ。昼休みは時間が限られてるからね。相手が抵抗しないという前提がないと、選びにくい時間帯だ」
「………………」
「脅されてるんだね? だから抵抗したくてもできなかった。今日が初めてじゃないね? 脅されて呼び出された。違う?」
「…………」
 ますます下を向いてしまった綾瀬の態度が、返事になった。

 丸山先生は、昼休みに起こる事件がそういう背景のもとに起こるものだと知っていたんだ。
 だから、知らせを受けた時点で詳細の予想ができた。
 脅されている可能性があるなら、ハッキリさせないと次の行動を選べない。
「なんて脅されているの?」
「…………写真を、……家に、送ると……」
「お家に……?」
 普通は学校中にバラまくとか、そんなんじゃないんだろうか。
「……僕は、学校をやめたくないです」
 そう思ったけれど、綾瀬の言葉に合点がいく。
 俺が、陽丘さんに知られたらと思った事と同じだ。
「家にそんなものが送りつけられたら……、転校させられるに決まってます……。僕は嫌だ……。もう、近くには行けなくても……、そこまで離れるなんていやだ……」

 高嶺のことを言っているんだと分かって、胃がきりりと痛んだような気がした。
 ……綾瀬は、高嶺のいる学校をやめさせられるのが嫌で、脅されるまま、レイプを耐えてたっていうんだろうか。
 俺は、あんなこと、何度も耐えなきゃならないなんて想像するだけで気が遠のきそうになるのに……。
「会長の為に、他の人に体を許すなんて、間違えちゃ駄目だ」
 丸山先生は少し厳しい声でそう言った。
「………………」
「いつからなの?」
「…………四月の、終わり……くらいから」
「今日は何度目?」
「……お、覚えて……ま、せん……」
「………………」
 丸山先生は、ぐっと眉を寄せて、ゆっくりと綾瀬を抱きしめた。

「……今日を最後にしような」
「………………」
 抱きしめられるまま、綾瀬は丸山先生の胸に顔を埋めている。
 泣いてるみたいだった。
「……佐倉くんは大丈夫? もどしたんだって?」
 訊ねられて肩が跳ねた。
「だ、大丈夫です……」
「何も大丈夫じゃない。佐倉くんも保健室に……あぁ、いや」
 丸山先生はちらっと腕の中の綾瀬に視線を落とした。
 綾瀬はこの後問答無用で保健室行きだ。
 そこで手当てをして休まなきゃいけないのに、同じ部屋に俺がいるのはNGだろう。
 丸山先生もそう思ったに違いない。綾瀬が指名制を利用してた生徒だってことは知ってるみたいだし、俺と綾瀬の互いの立場の違いは気を使ってしかるべきだ。
 特に今の綾瀬の場合は。

「佐倉くんは早退しなさい」
「えっ」
 いきなり示された対処法に思わずびっくりする。
 保健室が使えないから早退って……授業に出るって選択肢はないんだろうか。
「過呼吸は?」
「……なってません」
「フラッシュバックは?」
「…………わ、分かりません」
 思い出すってことがフラッシュバックなら、確かに思い出したことがある。だけど今までみたいなよく分からない混乱は伴っていない。
 でも、なんでいきなりこんな具合悪くなったりしたんだ俺……?
 襲われたのは綾瀬で、自分の身に直接降りかかった暴力沙汰じゃないのに。
 綾瀬の言うとおり、本当に、なんでこんなに弱くなってるんだろう。

「自分では大丈夫なつもりかもしれないけど、顔色が悪いよ。肩も動いてる。息が整わないんだろう? 早退して、寝てしまいなさい。この前渡した薬はまだ残ってるね?」
「え……」
 渡した薬、と言われてすぐに頭に浮かんだのは鎮痛薬だ。
「……一番小さい粒の」
「あ」
 高嶺が安定剤だと言って、俺が拒否したやつ。精神安定剤なんて飲みたくないと突っぱねて高嶺にクスリの代わりを約束させたことを思い出す。
「……残ってます」
 それも飲んでないから丸々残ってるし。

「じゃあ、寝る前にそれを飲んで。……悪いけど、誰か一人佐倉くんを寮まで送ってってくれるかな。僕は綾瀬くんの手当てをするから。担当の先生には遅れるって伝えておくよ」
「あっ、じゃあ僕が」
「いや、俺が送る。光は授業に出るんだ。二人して物陰に連れ込まれたら困る」
「え、あ、あそっか」
 要の言葉に光はあっさり頷いた。そりゃ、二人して放送室に連れ込まれた前例がある俺たちに反論の余地はない。

「綾瀬くん、制服は……?」
「あ、隣の準備室の方……、僕持ってきます」
 光は立ち上がって黒板横のドアから奥に消えた。
 俺はふと思い至って立ち上がり、流しについている蛇口を捻った。
 水を口に含んで口をゆすぐ。
「大丈夫か夏樹?」
「……うん」
 ゆすぎ終えて、さらに蛇口を捻る。もどしたものを片付けないと、自己嫌悪で死にそうだ。
「夏樹、お前休んでろって」
 要が慌てたように傍にやってくる。

「……要、ごめん、俺ここ洗うから、なんかビニール袋ないか、探してほしい」
「あ、あぁ、ビニール袋な? 待ってろ」
 動き回ることを頼んだおかげで要はすんなり納得してくれた。要は周りを見回して、黒板前の教卓や窓際の棚の中を適当に探し始める。
 俺はその間に流しを水で洗って、ごみ受けに水を流し込み続ける。固形物以外は流しきってあとは袋に入れてゴミ箱だ。
 光が制服を抱えて戻ってきて、しばらくして要もゴミ箱用にストックされていたらしいビニール袋を見つけて戻ってくる。
「さんきゅ」
「大丈夫か?」
「……もどした手前、信用ないかもだけど、大丈夫だよ」
 俺の答えを聞いて、要は耳元に口を寄せた。

「……会長に早退ってメールしろよ」
「あ」
「一緒に帰る約束してたんだろ? しにくいなら俺がしておくか?」
「う、いや……、自分で、する」
 言ってから、ちらっと後ろを見た。
 俯いた綾瀬が、丸山先生に手伝ってもらってシャツのボタンを留めているところだった。
 俺と綾瀬で何が違ったのか。
 そんなこと聞かれても俺にだって分からない。
 それは裏を返せば、俺が綾瀬と同じような立場には絶対ならないっていう根拠がないのと同じだ。
 理由のない不安のようなものが体の奥深くに沈んでいったような気がした。