128<対処法>

「うっ、ぅぐ」
 いきなり指を口の中に突っ込まれて、何がなんだか分からなかったけど、反射的に顔を背けて逃げた。
 そしたら五十嵐は俺のあごをがしっと手で掴んでくる。
 それでまた人差し指を口の中に入れられ、俺はパニックになりかけた。
「ぅぅぐっ、うぁ、えっ」
 舌をぐっと押されていて言葉がほとんどしゃべれない。
 足をばたつかせようとしても、太ももの上に乗られているからほとんど動かせない。

「されるがままじゃねぇか。抵抗なんて碌にできてやしねえ」
「んっ、ぐっ」
 分かった! 俺が非力なのはよく分かったから! もうやめてくれ!
「寧ろ煽ることだけは得意ってか」
 ギブアップを目で訴えるのに、五十嵐は聞いてくれない。
「こりゃ誘われたって言われたって文句言えねぇな」
「うっ」
「俺のことも、誘ってるわけか?」
「っ」
 五十嵐はどこか焦ったような笑みを浮かべた。
 細めた目でぼうっと見つめてくる。
 その距離が近づいてきて。

「ふうっ」
 喉元を舐められて体が震えた。
「びくびくしやがって。マジむかつく……」
「うううっ」
 舌は首筋を上ってきて耳に息を吹き込まれる。
 その直後、耳に激痛が走った。
「う゛んぅっ」
 噛まれたらしく、心臓の鼓動にシンクロするみたいに痛みがズキズキと脈打っている。
「うっ、う、ぅ」
「その目ぇ潤ませんのヤメロ」
「…………っ」
 もう他に方法が思いつかなくて。

「いってぇ!!」
 五十嵐の指を思い切り噛んだ。
「って、あっ、くそ!」
 五十嵐は指を引っ込め、腕を掴まれていた力が緩む。
 俺は死に物狂いでその腕を振り払い、五十嵐を突き飛ばして起き上がった。
「てめえっ、佐倉!」
 とにかく離れたくて逃げたくて、わき目もふらずにソファを降りて玄関にダッシュする。
 けど焦りすぎてるせいかまっすぐ進めなくて廊下の壁にぶつかったりして足がもつれた。転びそうだヤバイと思って壁に手を付いた瞬間、後ろから進路を阻むように伸びてきた手が壁を思いっきり叩き、顔が引きつる。後ろに首をめぐらすのと同時に肩を掴まれて体を反転させられた。
 その勢いのまま、半ば突き飛ばされるように廊下に転がされている。
 慌てて上半身を起こして見上げたら、リビングからの光で五十嵐は黒い影みたいだった。

「マジ逃げしてんじゃねぇ!」
 恫喝されて身が竦む。
 冷静になろうとするのにその時間を全部奪われる。どうしたらいいのか考える時間がない。五十嵐は自分の感情を一瞬も引っ込めない。
 こういう、とき、は……、えっと……どうするんだっけ……?
 俺は頭がもう、真っ白だ。
「ってぇなテメぇ……、がっつり血ぃ出てんじゃねぇかよ……」
 目の前に突き出された五十嵐の指は血にまみれている。
 必死で加減も何も考えなかったせいで深く噛みすぎたのかもしれない。口の中で血の味がする。

「びくついてんじゃねえよ! イライラすんだろ!」
 胸倉を掴まれてぐっと引き寄せられた。腰が浮く。
 そんなことを言われても、もう自分でどうしていいか分からないんだ。
「あ!? わざとかテメェ! 冗談の方向性が間違ってんぞ!? いつもみたく喚いてみろよ! え!?」
 ぱしんと音が鳴った。その後で、頬を叩かれたことに気付く。
「んなんだよ……! マジで……っ、お前……っ!」
 手を離されて、床で背中を打った。
 何か言わなければと口を開くが、言葉が出てこない。
「……っは」
 息が、苦しい。
「……っ」
 まずい。
 ……え、嘘だろ、おい。

「……おい」
「……っふ、……はぁ」
「おい!」
「は、はっ、はぁ」
「冗談じゃねぇぞマジで!!」
 五十嵐は叫んで俺から一歩離れた。
「ちょっと待て! なんでお前そんな簡単にっ」
「はぁ、はっ」
 俺はよく働かない頭でとりあえず首を振った。
 大丈夫だと言いたかったのか、五十嵐のせいじゃないと言いたかったのか、たぶん両方だ。
 だってこんな、ちょっと怒鳴られたくらいで発作起こすなんて、自分がほんとイタすぎる……。

「お前っ、どうすんだ……っ、オイ! それどうすりゃいいんだよ!?」
 五十嵐は一度下がった距離を恐る恐る近づいてくる。
 そうっと視線を向けたら、あんなにどうしようもなかった五十嵐の怖さが消えていて、安堵の冷や汗がどっと出てきた。
 でも一度なってしまった過呼吸は、簡単には収まってくれない。
 俺は苦しい息の合間にふくろ、と呟いた。
「袋!? 袋って何だ!? なんでもいいのか!?」
 こくこくと頷く。
 紙袋がいいとか丸山先生が言ってたけど、もう何でもいい。
「袋ふくろ……っ、って、どこに置いてあんだよお前の部屋……っ、わかんねえよ!」
「……っ、……はっ、はぁ」
「薬とかは!? そういうのねぇのかよ!? なんか発作起こした時とかの!」
「はぁ、は、はっ」
 答える気力がなくて、小さく首を横に振った。
 薬は、高嶺の部屋に置きっぱなしだ。
 呑む気がなかったから。だって、高嶺が俺にとっての薬なんだ。

「……た……か、みね……」
 ほとんど息に近いかすれ声で、高嶺の名を呼ぶ。
「高嶺ぇ!?」
 五十嵐は途方に暮れたような声を出した。
「会長のケー番なんか知るかよ! お前携帯に入ってんじゃ……、っつうか! 呼んでどうすんだよ! おさまんのか!? 来るまでゼェハァゆってんのかお前は!?」
「……はぁっ、はっ」
 もう……、もう、何も、答えられない……。
 目が重たい、指が動かない、唇が痺れて……言葉が……。
「おいっ」
 もういいやと投げやりな気分になって、俺は床に体を預けた。
 調べたら、過呼吸は苦しいだけで、ほっといても死ぬことはないって書いてあったんだ。
 だから、だいじょうぶだ。
 だいじょうぶ。……苦しいだけで、死なない、だいじょうぶ。

「っくそ!」
 聴覚だけは鮮明で、五十嵐の声が聞こえる。
 肩を掴まれたのが分かった。
 ぐいっと体勢を変えられたような感覚があって。
「はっ、ハ、ぅ、んむっ」
 ………………。
 あれ?
 ……なに、これ。…………。
 目が、開かない、あかないんだ。
 誰か……、誰か教えて……、これ……何? キス……?

「ん……うっ、っふ」
 苦しい息を吸おうとしても、口を塞がれていて、鼻だけでしか息ができないから呼気量がえらく減っている。
 そりゃ、……そりゃ、息の吸いすぎが原因だから、強制的に息を吸わないようにされれば収まっていくのかもしれないけど……! でもそのやり方かなり苦しいし! むしろ息足りてない気がして怖い!
 いやそれ以前に! 口を塞ぐなら手で済む話だよな!?
「ん……む、ぅっ」
 けど、痺れて力の入らない手足じゃ何もできない。

「ん、んっ」
 ていうかっ、舌……っ、入れる必要なくないか!?
 な、ないよな!? え、うわ、何!?
「……っぷはっ、はぁ、はっ」
 ふいに五十嵐が身を起こし、口が解放される。
「っふ、はぁ」
「ちっ、なにが違ぇんだよ!?」
「はぁっ、はっ、……っへ?」
 少しマシになったけどまだ苦しくて、薄く開いた目で五十嵐を見上げる。

「てめぇ前これで収まってたじゃねぇかよ……っ」
「へっ……? ふっ、んぅっ」
 意味を理解する前にまた覆いかぶさられる。
「んぅ、うっ」
 前に……? 収まった? これで……?
 これで、って……キス?
「んぅうっ」
 急に思い出す。

 そういえば前、社会科準備室の近くの屋上で、過呼吸になりかけて、そこに高嶺が来てキスされて収まったことが……。
 それを思い出してこれなのか!?
「んっ、ふぅっ」
 普通じゃないから……! こんなの正しい対処法じゃないから……!
 あ、ってか、そうだよ! 高嶺にキスされた時は収まったんだよ!
 なんで収まったんだよ! で、なんで今はこんな苦しいの!?
「んふぅうっ」
「情けねぇ声出すなっ!」
「はっ、もっ、やめ……っ、はぁっ、ハ」
 俺の声に抗議する為に身を起こした五十嵐に、俺は必死で拒否の言葉を搾り出す。
 がっしり髪を掴まれているせいで首が痛い。
「んだてめぇ高嶺じゃなきゃ無理とかそういう話か!?」
「っは」
 そういう話かどうか確信はなかったけど、とりあえずそういうことにしておいて、これ以上はやめてくれるように言おうと口を開いた直後だった。

「夏樹ッ!!」
 バァンと激しい音と共に切羽詰った大声が頭の上から降ってきた。
「……なぁ?」