22<混乱>

 その日の放課後、俺は安達と萩迫に送られて寮まで戻った。
 早く寝るようにと言って二人は帰ったので今は一人だ。
 ソファに座って、ローテーブルの上に置いたいちごミルクを見つめて、なんか考えたい気がしたのに何も思いつかなくて、ぼうっとしている、そんな時間。

「……明日、飲もうかな」
 風邪じゃないけど、吐いた時には牛乳は良くないって聞いたことがある。
 小野寺も、だから元気になったら飲んでって言ってたんだ。

「………………」
 ――あたしのいちごミルク! 飲んだの夏樹でしょ!!
「…………」
 冷蔵庫にあったいちごミルクを、夕香のだって分かっててよく飲んだ。
 だって夕香、よく名前書くの忘れたから。
 うちのルールは、食べられたくないものには名前を書く、だったんだ。

「…………もう、書かなくていいのか」
 冷蔵庫に入れるいちごミルクに、名前を書かないって、すごい違和感がある。
 なんだ、そんなことで実感湧いちゃったのか、俺。
 一気に増した、もう独りなんだって孤独感。
 どこにも姉ちゃんも母さんもいないんだっていう現実。

「……あぁ、もう」
 そのままごろりとソファに横になる。
「なんていうかこれ、ホームシック……? いや、それは帰る場所がある時か……」
 寝ていたら眼鏡がずれて痛い。外してテーブルに置いて、俺はうつ伏せになってソファに顔をうずめた。

「……は、くるしい」
 息が苦しくなって顔をうずめ続けるのを諦める。
 再び視界にいちごミルクが入った。
「…………ゆうか」
 生まれた時から一緒にいた、双子の姉ちゃん。
 双子なのに、上の姉ちゃんたち二人が自分たちの仲間に入れるから、お姉さま三人と弟の俺、って扱いだった。
 それでも、夕香はやっぱり俺よりだったけど。

「夕香……、なんで……、もう、歌ってくれないのかよ……。俺、続き思いついたんだよ……。アレンジ調整……するの、……仮歌録らせてよ……」
 二人で、曲を作った。イメージを膨らませて、二人で歌詞つくって、それにメロディつけて、俺がアレンジして……。
 それを夕香が歌ったんだ。
 デビューしてユーカになって、すごく楽しそうだった。

「……これからだったのにな」
 なんかもう、考えたくない。
「俺だけ、残っちゃって、ごめんな」
 思考を拒絶した頭は眠ることに意識を閉ざしていく。
 いつの間にその境界線を越えたのか気付かないまま、俺は眠りに落ちていた。


 びく、と体が震える。
 何かの気配がした、それだけが頭の中でいっぱいになった。
 体を起こす。
「……っ」
 あたりが薄暗い。なんで?
「おーい、いるぅ? 鍵開いてたんだけどー、電気付けてないの~?」
 誰かの声。
 声、声……。

 ここはどこだ? 今俺はどこにいたんだろう。あぁ、今までいたところは夢の中か。じゃあここは、そこじゃないところ?
「…………あ」
 っていうか、俺はいまどんな夢を見てたの?

「付けるよー」
 パチ、と音がして、光が。目に刺すような痛みを感じて目を開けていられなくなった。
「あ、いるじゃん。寝起き? 駄目だよー。鍵掛けとかなきゃぁ……って、ぇえ?」
 声が近付いてくる。

「ちょちょちょ、佐倉夏樹? おまいさん、佐倉夏樹だよねぇ、転校生の」
「……だ、れ」
 急な光にじわっと出た涙のせいで視界がぼやけて良く見えない。
「俺だよぉ。副カイチョ。宮野彰」
「…………みや」
「いやいやいや、何それ超反則カワイーっ」
 言葉を記憶と結びつける前に、体が浮いた気がした。

「……ッ」
 背中は柔らかかったけど、いきなり押し倒された衝撃は結構大きい。
 それもふいだったせいか、俺は息を詰まらせた。
「ねぇ佐倉ちゃん。君何なの? その眼鏡、隠してたのソレ? ねぇなんでそんな可愛いの? 誘ってる?」
「……ぁ、あ」
 どうしようどうしよう。何か、何か言わなきゃいけないのに。言葉がつっかえて出てこない。

「うわぉ。可愛い反応。俺男も女も可愛い子に目がないんだぁ。ちょっと味見してもイイ? 嫌だったら抵抗して」
「ぅ……っあ」
 気持ちいいとかそんなのでは決してなく。
 つうっと服の中に手を入れられて、全身に鳥肌。
 自分を消してしまいたいほどの嫌悪感が、全身を占める。

「……っ、っ、ふッ」
 首を振った。拒絶する言葉も、跳ね除ける力も出てこない。それだけしかできなかった。
「なに? イヤイヤしときながら、全然嫌がるの頑張ってないよー? 男の萌え心っての、超分かってんねぇ佐倉ちゃん」
「ぃ……」
 嫌だの三文字が声にならない。

「ぅアっ、あ……っ」
 変な声しか出ない。あぁ。本気でどうしたのかな。焦るよ。焦る。
 ここはどこだろう。知らない。家に帰りたい。
「うっそ、可愛い声……、マジはまりそうなんだけど」
 目の前の奴はがんがん響く声で何か言っている。
 痛い。痛いんだ。
 これ以上は、もう嫌だ。

「…………し、て」
「……え?」
「っこ」
「あり? 震えてる? 怖いの?」
「…………っ」
「うわわわゴメンっ、いやそんな怖がるなんてっ! 君気ぃ強そうに見えたから……!」
 いなくなる影。

 に、逃げ、逃げ、逃げな、きゃ。
 姉ちゃ、姉ちゃんが……。

 出口。出口はどこだろう。
 助けを。……誰か。
 夕香。
「っ佐倉ちゃ! ねぇちょっと!」
 声は、もう遠くからになっていて、少し希望が見えた。