76<選択>

「……せんぱ……俺、……そんな」
「…………ごめん、たちの悪い求め方してる……」
「あ、っわ」
 支えられていたのがバランスを崩し、床にいっしょくたに倒れこむ結果になった。
 さっきアドレスを交換したばかりの携帯が転がる。
「どうしても無理……? もう佐倉ちゃんの心って高嶺でいっぱい……? ねぇ、慎也が告白したの三日前だよ……、たった三日だよ……、三日出遅れただけで俺にはもう望みはないの……?」
「…………」
「ねえ、もう、ホントどうにかして……」
「……ぅ」

 またキスをされて、俺は反射的に目をつむった。
 間にある眼鏡がズレる。
「……や、……やめ」
 どうしたらいいんだ。
 体もだけど、頭もフリーズしてるのが自分で分かる。
 うまくモノを考えられない。
 宮野先輩の言葉も、声も、表情も、……全部凄味があって、重すぎて。人が、そんな想いの抱き方をするなんて思ってもみなかった。
 明るくてフランクでノリの軽い、悩みなんてあまりなさそうな人に見えていた。笑顔も自然だったし、高嶺と言い合いをしているのも何だかんだで楽しそうで、明るい所にいる人なんだと思っていた。
 それが、こんな重たい心を隠していたなんて。
 どんな感情がどれだけ入ればこんなに重くなるんだろう。
 そんなものを俺に投げ出されても、受け止めきれるわけない。
 潰れてしまう。
 潰されそうで、身動きが取れない。

「……そん、な……むり……」
「……信じたくない」
 先輩は俺の上に両手をついて、真上から見つめてくる。
「だ……、でも」
「だって佐倉ちゃん、慎也にたったの一日で口説き落とされたくせに……。どうしても考えちゃうよ……、押せば落ちてくれるかもって……」
「んな……、そんな……」
 だってそれは、誰でもってわけじゃない……!
「って……、高嶺……だから……、そんな……、安心、できんの……、そんな……他にいない……」
「……あはは、慎也って安心するの……? あいつってわりと怖がられるんだけどな……機嫌損ねないかって……」
「……機嫌……とか、そんな……、俺、先輩の方が怖い……」
「…………ごめん」

 少し苦しそうな顔で笑って先輩は俺の眼鏡を外した。
「やめ……、違う……」
 そんなのは嫌だ。
 高嶺は俺を押して落としたんじゃない。
 先回りして、両手ひろげて、いつでも落ちて来いって待っててくれたんだ。
 ただその落ちて来いコールが激しかっただけで。
 俺を押そうなんて……、押し潰そうとなんてしなかった。
「嫌だ……、違う……」
 押し潰されるのは怖い。
 そんな重たそうな気持ちを振りかざされたら、足が竦む。

「無理だ……っ、俺には、無理……っ」
「俺も無理だよ……、止められない」
「…………っ」
 ネクタイを解かれる。止めようと伸ばした手は、愕然とする程力が入らなくて、それで自分が震えかけているのに気付く。
 高嶺の安心とは、正反対だ。
「さ……くら、ちゃん……、な……つ、き」
「ぅあ……、いやだ……、ったかみね」
「…………」
 つい口から出た名前が、先輩の表情を歪めたみたいだった。
 首筋に顔を埋められる。

「ぅ……あ、あ」
 口から言葉が出ない。
 拒否を訴える声は出るのに、どう言えばいいかもう頭が回らなくて、ただ泣きそうになるのを堪えるしかなかった。
「……ねぇ、これ、慎也がつけたの?」
「う……あ」
 昨日の昼間高嶺につけられたキスマーク。その上を指でなぞられて、叫びだしたくなる。
 シャツのボタンはもうほとんど掛かっていない。
「……すっごい、痛いよ……、苦しい」
「やめっ、や、……嫌っ、だ……っ」

 チリと痛みが走る。
 高嶺の跡が消えたと思った。
「あ……、……、んな」
 これからどうなるんだろう。
 こんなに嫌なのに、受け入れがたいのに、ろくな抵抗もできなくて、そしたら、もうどうなるかなんて想像したくない。
「う……うぅ」
 殴る分の力も込められない手じゃ、先輩の体を押し返そうとしても全然意味なんてなかった。

「いっ」
 制服のシャツの前を乱暴に広げられ、中に着ていたシャツを捲り上げられる。素肌に空気が触れて、空気は暖かいのに鳥肌がたった。
「……佐倉ちゃん、怪我……可哀そうに……」
「…………は」
 そんなものは全然可哀そうじゃない。
 俺は生きてる。傷も塞がって、元気に生きてる。可哀そうなのは死んだ姉ちゃんたちと母さんだ。
 それから、先輩だ。

「……こんなの……なぃ……。先なんて、ない……のにっ」
 人を好きって、欲しいって、こういうことじゃないはず。無理矢理どうにかして、その先に明るい希望なんてあるわけない。
「……わかってる」
 なら、なんで?
「でも、どのみち俺たちに先なんてないだろ……」
「…………」
 先輩の顔が見えなくなった。
「……うっ」
 肌を、さっき痛みが走ったところから下へ、ぬるっとするのが下りていく。
「あ、うあぁ」
 気持ち悪さしかない。
 付き合う前、高嶺にされた時は不本意にも、なぜかそっちの感覚はあったのに、今は嫌悪感しかなかった。
 ただ、ホントにもう、怖かった。オソロシイ、って、こういう時に使うのかもってワケの分からないことが頭をよぎる。

「ハ……あ」
 何かに縋りたくて伸ばした手に何かが当たる。
 ……携帯だ。
 高嶺の、アドレスが、入ったばかりの。
「………………」
 咄嗟に握り締めて、そのあとフリーズする。
 高嶺を呼んで、どうするっていうんだ?
 先輩は高嶺の幼馴染みで、親友で。
 大事な……、大事な友達のはず。
 俺が呼べば、確実にそれが……どうにかなる。

「…………佐倉ちゃん。慎也、呼ぶの?」
 俺が携帯を握り締めているのに気付いた先輩は、苦しそうにそう言った。
 俺から携帯を奪おうとか、助けが呼べないようにしようとか、そういうことは考えていないみたいだった。
「………………」
 逃げ出して、先輩を殴って何もなかったことにすれば、それが一番、壊れるものは少ないはず。
 けど今の俺の状態じゃ、その選択肢が選べない。動転して腰まで抜かして、それは俺の弱さが……原因で。
 まともに人の深いところと向き合ったことなんてなかったように思う。連絡先が一件も復活していないのだって、そのせいだ。
 一番マシな選択肢を選べないのが俺のせいだっていうなら、俺はそのツケを払わなきゃ、駄目な気がした。
 俺が壊していいものじゃない気がするんだ。

「……佐倉ちゃん?」
 高嶺を呼んだら、壊れるものがある。助けて欲しいのと、壊れて欲しくないのが同時に叶わないなら、どちらかを諦めないと……。
「ちょっ」
 助けてもらうのを諦めれば、二人は、俺が憧れる親友のままでいてくれんのかな……。
「……なに、考えてんの……」
 気付いたら床に手放していた携帯を、ため息まじりに先輩が拾った。
「…………あぁ、もう。そういうトコに惚れたんだってば。も、溢れそう……」
 泣きそうな顔で、先輩は俺の携帯の画面に指を走らせた。
「も……、俺、何したいのか分かんない……」
 何をしてるのかさっぱり分からなくて、呆然と先輩を見上げていたら、どうやら電話をかけているらしかった。

「なに……誰に……」
 番号は押してなかった。
 俺の携帯に連絡先携帯にが入ってる人なんてそんな多く……、まさか。
「……もしもし、高嶺?」
「な」
「え? ……そう、俺。……これ、佐倉ちゃんの携帯……」
 ななな、何を。なんで、なんで。
 なんで先輩が高嶺に電話を?
「高嶺、……今すぐさ、俺を殴りに来て、頼むから」
「ちょっ、先輩……!」
「佐倉ちゃん? うん、いるよ、ここに……、資料室、教室の近くの」

 もうさっぱり意味が分からない。
 先輩は、高嶺のことどう思ってるんだ? 壊れていい仲だなんて思ってないはず。
「あはは、会長、廊下走ってでも急いで。……じゃ、待ってる」
 先輩は自分を笑うように無理矢理笑顔を作って電話を切った。
「……佐倉ちゃん、泣いてんの?」
 顔を覆っていた手を掴まれる。
 俺って最近本当泣いてばっかなんだけど。
 俺の涙腺が変になったのか、心が弱くなったのか、それともそれくらい色んなことが起こりまくってるのか。
 きっと後ろの方だ。

「……俺っ、いらない……、なし……ないって……、そんな……仲壊すほど、俺……、価値……、資格、ない……っ」
「佐倉ちゃん……、佐倉ちゃんはいい子だよ。入院してた時何があったのか分からないけど、だって高嶺が惚れた子だよ? ……俺も、さ」
 不意にぐいっと助け起こされて、先輩の胸に引き込まれた。
 さっきまでの不快感はいつの間にか消えていて、人の温かさにふいに涙腺が全開放しそうになるけど、頼っちゃいけないと先輩の胸を押し返す。
 けど、無理矢理抱え込まれて、ぐだぐだな体の俺にはどうしようもなかった。
「……ちょ、もう……ホント、勘弁してくださ……」
「佐倉ちゃん、好きだよ……。ほんと、自分責めないで……な? 俺が我慢できなくなったのが悪いんだ。……絶対離したくないって思ってる。……あぁ、俺ほんと、慎也なんか呼んで。意味分かんねー」
「…………」
 気持ち悪かったのがなくなってるのは、先輩がしようとしなくなってるからだと、ふと思った。
「泣かしたくなんてないって……、マジで、俺じゃ駄目なん……。もう、どうしたらイイんだ、どうしたいんだ俺……佐倉ちゃ、キスさせて」
「…………ぁ」
 答えを言う前に、実行されて、体が強張った。