77<涙腺>

 けどそれは、ほんの一瞬のキスだった。
 触れるだけみたいな、子供のキス。
「………………」
「そんな慎也が好き? 慎也が友達失くすの嫌で、我慢しちゃう程?」
 俺は視線を落として俯くしかなかった。
「…………」
「……すっごい、一気に惚れたんだね……、俺がそうなのと同じで」
「………………」
 なんでだろう。なんで俺なんかがそんな好きになってもらえるんだろう。
 高嶺だけだって最初は嫌がらせだと思ったし、今だって物好きだなぁと思わなくもないのに。

「俺、諦めないでもいい? 慎也が頑張ったみたいに、俺にも頑張らして」
「………………」
 本当に全く、どう答えればいいのか分からなかった。
 諦めるのがもう苦痛だと言った先輩に、諦めろって? でも、応える気がないのに諦めないでいいとも言えない……。
 あぁ、また目頭が熱い。
 一度緩まった涙腺はちょっとしたことですぐに水を溢れさす。

「……俺、困らせてるね」
 先輩は困ったように呟いて、ふっと息を吐いた。
「ごめん佐倉ちゃん、好きになってごめん……」
 そろっと伸びてきた手が髪の中に差し込まれた。
「……すみませ」
 とりあえず、泣いてしまったことを謝ろうと思った。
 でも、それが答えになってしまったことに気付く。
「…………ご、ごめんなさ……い、俺……」
「うん」
「……あ、諦めるの……辛いって、俺には……どれくらいかとか、あんま……分かって、なくて……」
「…………うん」
 先輩は他に何も言わずに俺の髪を梳いている。

「で、でも、……俺なんか、より……もっと、何か……ほしいもの……見つけて、ほしい……って、それ……ホントに……それしか……」
「…………」
 先輩は手をゆっくりと引っ込めた。
「……泣かせちゃ、資格……ないか……」
「す、すいませ」
 男のくせにぼろぼろ泣いて。
「ちが……、先輩のこと、だけじゃなくて、その前から結構……。涙腺ゆるくなってるだけですから……」
 俺だって告白して困って泣かれたら傷つくのは想像がつく。泣くほど嫌って、そんなの、言葉にするより明確な答えになってるじゃないか。

「……ごめん。……ねえ、ずっととか、言わないから……、別れてとかも言わないから……、この気持ちだけ、持たさせて……」
「………………」
 切なそうな先輩の声を聞いていると、本当にもう、この場から逃げ出したかった。腰なんか抜かしてなかったら、必死に逃げてたと思う。
 助けてほしい。
 涙腺ゆるむ一方なこの場から。
 誰か。
 ……高嶺。

「夏樹っ!!」
 激しい音と一緒に声がした。
 はっと顔を上げると、そこには、いま心で名前を呼んだばかりの高嶺が、息を切らして立っていた。
「たか」
 言い終わる前に抱き込まれている。
 勢いよくだきしめられ、名前の後半が本人の胸の中に消えた。
「……慎也」
 先輩の、深刻な声がする。
「泣かしたの誰だ?」
 高嶺は簡潔すぎる言葉で事の詳細を先輩に尋ねた。
「…………」
「親衛隊か何かか? それともお前か? 彰、殴りに来いってどういう意味だ」
 一瞬言葉を詰まらせたらしい先輩に、高嶺は鋭い言葉を投げかける。

「……泣かしたのは、俺」
 先輩が答えて俺は首を振った。
「ちが、俺が勝手に……っ」
「佐倉ちゃん、違うだろ」
 けど先輩の強い語調に俺の言い訳は続かない。
「確かに俺が泣かしたよ。慎也、俺も佐倉ちゃんにマジで惚れてんだ」
「……お、っまえ」
 高嶺の腕に力がこもった。
 息苦しかったけど、離してもらおうという気にはなれなかった。
 高嶺の熱い手のひらは安心する。

「……マジ、かよ」
「マジだよ」
「…………俺もマジなんだよ。今度ばっかはな、俺の方もマジなんだ。生まれて初めて」
「……知ってる」
 高嶺の胸に視界がほぼ覆われて、高嶺の表情も先輩の顔色も見えなかった。
 どうしよう。
 この前楽しそうに言い合いしてたのに、今日の二人の会話はすごいありえない。

「……夏樹、ごめん」
「え?」
 いきなり上から高嶺が謝ってきて、俺は意味が分からずに聞き返した。
「それ、俺も泣かしたようなもんだな」
「……え」
「半分は、俺の為に泣いたろ」
「…………」
 すっごい自信だと思ったけど、その通りだと思った。
 先輩にされたことが嫌ってよりも、二人がどうにかなるのが嫌だったんだ。それなのに。……あぁ、くそ。二人は対面して、深刻な顔でいる。

「彰、俺もお前も、夏樹泣かしたくないってのは一緒だよな」
「え?」
 思わず上を向いて高嶺を見上げ、瞬きを何度かする。
「そんなの、決まってるっしょ……」
 先輩は、他は有り得ないというように空気交じりに答えを呟いた。
「なら、俺が言わなくてもいいか?」
 高嶺の声音は、鋭いというより、苦しそうだった。
「…………うん。とりあえず、今は俺、無理みたいだから……任せるよ」
 見えなくても、先輩の顔が痛そうに笑っているのが想像付く。
 先輩が立ち上がった気配がした。
 俺はその音を耳で捉えながら、見えないにも関わらずさらに目をつむる。

「……佐倉ちゃん、ごめんな」
「………………」
 俺は先輩のその謝罪に、はいとも、いいえとも言えなかった。
 ただ黙って言葉を聞いているだけだった。
 静かな足音と、その後に、同じく静かな扉の開閉音が聞こえて、部屋の中から先輩の気配が消えた。

「……夏樹、大丈夫か?」
「…………先輩、行った?」
「あぁ、俺たちだけだ」
「……もぅ…………マジで、……びびった……」
 腰が抜けてるのに更に緊張していた体が一気に脱力する。
 宮野先輩の、正直すぎる殴りに来てコールに、高嶺は本気で応えるんじゃないかってちょっと思ってた。
「違う。大丈夫かって聞いてんだ」
 高嶺は俺の肩を掴んで顔を覗き込んできた。
 ぼろぼろ泣いた顔を正面切ってみられるのが恥ずかしくなって俺は視線をそらす。

「……大丈夫、って……なにが」
「何ってアホかお前。発作だよ。シャツ肌蹴てんじゃねえか。あいつ何した? 力ずくか? 事と次第によっちゃ今後の方針に影響が出る」
「…………ちょ、いや、そんなんじゃ……。マジで、これでダチと絶交なんて……やめろよ? ……だ、大事なんだからな、友達って」
 俺はできるだけ高嶺が反発しないように諭しにかかる。
 けど。
「んなこと分かってる。お前泣かしたくないのは一緒っつったろ。そういう人間同士でそんな結果になったら俺らは正真正銘の馬鹿だ」
「………………」
 高嶺はアッサリと俺を安心させる言葉をくれた。
「…………そ、か……」
 拍子抜けして、気の抜けた返事になる。
 俺はもう駄目だと思った、のに。
 最悪の事態を想像して、なんか今考えたら、もっと最悪な方を選びそうになったのに。
 ……高嶺。……あー、たかみね……
 噛みしめるように心の中で名前を呼んで、俺は自分の気持ちに名前を付けようとした。

「で、何された?」
 高嶺は口を少しヘの字にしながら聞いてくる。
「…………べ、べつに……なんも」
「なんも、って状態じゃねえだろがお前っ」
 俺の答えに高嶺はやっぱり納得しなかった。
「何されたんだ!? 言えないようなことか!?」
「お、俺が泊まった日にお前がしてきたコトよかマシなのは確かだよっ」
「はあ!? んなコトしてたらタダで済まさねえし!」
「ちょ、お前自分がやったこと棚にあげすぎだろ! あん時の俺っ、今以上に男に免疫なんてなかったんだぞ!」
「んなもんっ、免疫どうこうよりフリーかどうかの問題っ、って話を上手く逸らすなお前は! 言え! 何された!?」
「………………」
 言え、と命令されて俺はさすがに口ごもる。

 そんな、ちょっと酷くないか?
 俺は男だけど、女の子に、男に乱暴された内容を説明しろって言ってるのと似たようなもんだと思うのに……。
 いや、俺は男なんだけれども。
 でも同じじゃないのか……?
「されたこと上塗りしてやる」
「………………だっ」
 思わず体を引こうとして、まだ腰がしっかりしてないのを思い出した。
「言えよ……、俺で、俺との記憶で塗りつぶしてやるから」
「わぁああァ、ちょっとっ」
 全然未遂だったとはいえ、襲われたばかりの恋人に対してなんつーコトを!!

「バッカじゃねえの! お前ばか! アホ! 節操なし! やさしく慰めんのがフツーだろ! 襲ってどうするエロ魔王っ!」
「慰めてやるんだろ、合ってんじゃねぇか」
「ぎゃあ何その屁理屈っ! 有り得ねぇ! イヤだって!」
「お前の偽のイヤイヤが俺に通用すると思うなよ。俺を萎えさそうと色々言葉数並べてぎゃあぎゃあ騒ぐ時は、嫌じゃない、恥ずかしいだけの時だ。ここんとこ数日で分かった」
「何だそれっ!?」
 なんで俺の説明書読破したみたいな顔してんだ!?

「……た、高嶺……。え、何……、マジ、なの?」
「冗談だなんて、お前が一番思ってないだろ」
「………………」
 俺は沈黙の後に、なんて言おうか考えがまとまらないまま、口を開いた。