87<記憶>

 保健室には、案の定丸山先生がいた。

「すみません、次体育なんでまた着替えさせてもらっていいですか?」
 がらがらと扉を開けて、入口から声をかける。
「ああ、佐倉くん、大丈夫だよ、今は休んでる子もいないし。今日は友達も一緒? ……あれ、安達くんじゃないか」
 机から顔をあげた丸山先生は俺の後ろにひっついていた光を見て意外そうな顔をした。
「丸ちゃんやっほー! なっちゃんと同じクラスなんだ!」
「そうだったのか」
「あれ、二人って仲いーの?」
 いきなり始まった再会トークに言葉をはさむと、光はあははと笑って中にずんずん入っていった。

「丸ちゃんはみんなと仲いーよねー?」
「懐かないのもいるけどなぁ」
「えー、誰それー?」
 五十嵐だ。とは思ったけど、当然胸の中に秘めておく。
「安達くんは佐倉くんの付き添い?」
「はい、なっちゃん今ちょっとアレだから」
「あぁ、アレだなぁ……どうしたもんかな……」
「…………」
 二人の通じ合っている会話に俺は踏み込まないことにした。

「ていうか、佐倉くんてなっちゃんって呼ばれてるんだ。可愛いね、それ」
「ですよね! なっちゃんって可愛いですよね!」
「うん、可愛いよ。佐倉くん、僕もそう呼ぼうか?」
「……やめて下さい」
 さすがに俺は低い声で拒否の意思を示す。
「えー、どうして、安達くんはいいのに」
「光だからいいんです。問答無用で呼ばれてるんだって周りも認識するから」
「あー、それは確かに。的を得すぎてる正論だ」
 丸山先生は背中を丸めてくすくす笑いながら呟いた。

「分かった分かった。なっちゃんって呼ぶのはやめるから。ほら、早く着替えなさい。昼休み終わるよ」
「あ、そうだ。結構ギリギリに出てきちゃったんだよね、時間やばいんだった」
 光はあたふたと体操服袋から体操着を取り出し、辺りをきょろきょろと見回す。
「どうした?」
「え、あぁえーっと」
 光は体操服を抱えて時計を見上げ、残り時間の短さを気にしているようだった。
「いやほら、休み時間の終了前ってさ、よく次の授業休む人来るじゃない? いきなり着替えててもびっくりだろうし、奥のベッドの仕切り借りてもいいかなあって……」
「あぁ、そうか。いいよ使って。どこも空いてるから」
「わ、ありがとうございますぅ」
 丸山先生の許可を得るや否や、光はぱあっと顔を輝かせてそそくさと奥のベッドへ向かい、仕切りを閉めてしまった。

「……なんだ?」
「週末、いろいろあったんじゃないかな」
「え?」
 小声でぽそっと呟いてくる丸山先生。
「何がですか?」
「……先週、佐倉くんが五十嵐に勘違いされたのと同じ理由だよ」
「えっ」
「実際に結構多いんだ、そういう理由でここで着替える子。だからあの時五十嵐もそう思い込んだんだと思う」
「…………へえ」
 俺は改めてこの学校の凄さを新しくひとつ思い知った。実際多いのか。

「佐倉くんも他人事ってわけじゃないだろう。結局どうなったの、会長さんとの件は。君がゲイだって話はどこからも聞いてないけど、もしかして付き合ってるの?」
「えっ、つっ、つきっ、な、なんでっすか」
「そう噂してる子もいるから。でもこの前……放送あった日かな? その時着替えに来た時は有り得ないーって感じだっただろう? あれからどうなったの? 会長、君のこと色々聞きにきたよ。過呼吸起こしたって?」
「……あー、そうだった、……た、高嶺が色々、俺の事で凄んだみたいで……すいません」
「…………その件を知ってて……、さらに会長のことを君が代わりに謝罪するってことは……、とりあえず先週よりは仲良くなったんだね」
「…………はぁ」
 光といい丸山先生といい……、俺の高嶺への態度はそんなに酷かったのか……?

「……事故の後、復学するまでは過呼吸とか起こしたことなかったろう?」
「……えー、まあ」
 丸山先生は思案顔で首を傾ける。
「やっぱり学校生活は刺激が強いのか……」
「………………」
 丸山先生の言い方は、ふと頭の隅に引っかかった。
「過呼吸だけ? 意識失ったりはしてない? 事故のこと何か思い出したりは……」
「……いえ、別に」
 俺はとっさに、そう言った。
「そう……。会長にも言ったから伝わってると思うけど……、君はね、事故の時意識がなかったんじゃなくて、解離性健忘って症状を起こして忘れてるだけなんだ。そういう場合、何かのキッカケでその記憶を感覚的に思い出したりする可能性が高いんだよ。フラッシュバックって言うんだけど、その話は聞いた?」
「……はあ」
 もう起こしたなんて、なんか言えない雰囲気だ。

「……忘れてるものはね、無理に思い出す必要はないんだ。生きていく為には必要ないと脳が判断したから忘れる記憶っていうのもあるからね。だから過呼吸とかフラッシュバックを起こすような状況は極力避ける生活をする事が、精神安定の面からみても重要なんだ。分かるかい?」
「……なんとなく」
「それでいいよ。もし頻繁に過呼吸とか、それこそフラッシュバックとか起こすようになったら、ちょっと周りの環境を考えなきゃいけなくなる。佐倉くんの今の立場が影響しなきゃいいけど……。もし、ちょっとでもまずいなって思ったらすぐに言いに来るんだ。カウンセリングとかも考えるから。分かったね?」
「…………はい」
 頷いてから、それはどういうことだろうかと考えた。
 ……思い出さない方がいいって、どういうことだ? 生きるのに必要ない? ……必要ない記憶って、何だ? 姉ちゃんたちの、母さんの、夕香の、最期? 即死だったとか、即死じゃなかったかもしれないとか、全部ひっくるめて忘れてる方が、俺は生きやすい? それって、真実は最悪ってことじゃないか。

「ほら、佐倉くんもそろそろ着替えないと間に合わないよ。ベッドの仕切りもう一個使っていいから。他の生徒が入ってきたら驚くだろうし、君、話題の子なんだから」
「はぁ……、そうっすね」
 曖昧に頷いて、体操服袋を抱えなおす。
「……じゃあ、借ります」
 本当なら、着替えるより、そのままベッドにダイブしたかった。
 何をどう捉えればいいのか整理する時間が欲しかったけど、それは小さな我がままで、結局俺は着替えて授業に出ることを優先した。